2013 年 6 月 のアーカイブ

エッセイ : 「地震保険を語る」 全12回

2013 年 6 月 25 日 火曜日

≪第六回≫ 日本国政府の決断

 

 地震のように滅多に起こらないが、ひとたび起こると途轍もない大災害となるようなリスク (危険) について、保険会社は、例えばロンドンのロイズのような世界の 「再保険」 という仕組みを通じてリスクの分散を行う。 前回、ここまで述べた。

 

 さて、田中角栄大蔵大臣の 「地震保険が必要だ」 という鶴の一声にはどんな意義と重みがあったのか。 今回は、これについて述べよう。

 

 地震保険が誕生した1966年 (昭和41年) 当時、世界の再保険者は日本の地震リスクに見向きもしてくれなかった。 リスクが大きすぎることと、日本の国力が小さかったからだ。 新潟地震の悲惨な状況に接しても、日本の保険業界だけでは、どんなにがんばっても巨大なリスクである地震保険の引き受けに乗り出すことは無謀なことであった。 いざというときに 「支払えません」 といって破綻するのは、保険会社にとって何よりも避けなければならない事態である。

 

 田中大臣の鶴の一声は、ここでとても重かった。 当時の大蔵省は、大臣の命を受けて、「世界が相手にしないなら日本国政府が再保険を引き受けようじゃないか」 と腹を括り、保険業界とともに制度の創設に向けて人知を尽くした。

 

 地震保険の発足当初、保険の契約限度額は建物が90万円、家財が60万円、しかも火災保険の契約金額の30%が上限で、全損の場合のみの補償となっていた。 しかも普通の火災保険には付けることができず、当時の住宅総合保険または店舗総合保険 (併用住宅の場合) に強制的に付ける形でのみ契約できるという制約が付いた。 この結果、保険会社や代理店は、総合保険 (火災事故だけではなく自然災害など家に起こる様々な事故を対象とする保険。 今ではこれが普通の保険で、火災事故のみを対象とする保険はほとんどない) の売れ行きが悪くなり困ったくらいであった。

 

 ともあれ、地震保険は、日本国政府が後ろ盾になったものの、政府も民間保険会社も、まさに恐々 (こわごわ) の状態で誕生したのである。   (文責個人)

日本損害保険協会 常務理事 栗山泰史

エッセイ : 「地震保険を語る」 全12回

2013 年 6 月 10 日 月曜日

≪第五回≫ 地震保険が立っていたスタートライン

 

 前回、地震保険が東日本大震災によって、初めて高い評価を得ることになったと述べた。 今回から、その背景について、少しずつ記してみよう。

 

 地震保険が誕生した1966年(昭和41年)頃、日本の国力はまだまだ小さいものであった。 筆者は当時中学生であったが、子供のための年鑑に自動車保有台数を表す絵が書いてあり、アメリカは一家族が一台の自動車に乗っているのに対し、日本の場合は、一台の自動車に完全に溢れてしまうほど多くの人々が乗っていたことを覚えている。 日本は、発展途上にあり、保険でも世界から相手にされるような存在ではなかった。 ここで、「再保険」 という言葉がキーワードになる。

 

 保険は、例えば、千円の掛け金を支払って、事故の際に百万円の保険金を受け取るという仕掛けになっている。千円が百万円になるということは、千人が千円ずつ出して集まった百万円を一人が総取りするということである。 この時、保険会社は、いわば 「胴元」 の役割を果たしている。

 

 いわゆる博打の 「胴元」 と保険会社が異なるのは、千人のうち一人しか当たらないということを裏付ける確率計算ができることである。 そして、もう一つ、非常に重要なことは、滅多に起こることのない大事故に備えて、保険会社もまた保険を掛けるという 「再保険」 という仕組みが後ろ盾として存在することだ。

 

 オリンピックが開かれたロンドンにロイズという名前の保険の引受機構があることを聞かれたことはないだろうか。 これこそ、世界各国の保険会社が自分では手に負えないリスク (危険) について 「再保険」 を掛ける相手なのである。

 

 もちろん 「再保険」 はロイズだけでなく他にも大小含め数多くある。 しかし、地震保険が誕生した昭和41年頃、日本の地震リスクについて手を差し出してくれる再保険者は、世界のどこを探してもいなかったのである。 これこそが、地震保険が立っていたスタートラインであった。   (文責個人)

日本損害保険協会 常務理事 栗山泰史